菊地さんが装幀した本は、書店の店頭でとりわけ強い光を放つ。この映画を見れば、菊地信義という装幀者(一般には装幀家やブックデザイナーと呼ばれるが、菊地さんは自らをそう呼ぶ)の名前を知らなくても、日本の本が好きな人であれば「自分の持っているあの本も、きっと菊地さんの仕事だ」と気づくかもしれない。多くの人にとって印象深いのは、斜体になっていたり、斜めにレイアウトされていたりする明朝体の文字ではないだろうか。実際は、1万5千冊にのぼるといわれるその仕事の一部を眺めるだけで、それどころでない驚くべきバリエーションに富んでいることがわかる。映画の中でも、弟子筋にあたる水戸部功さんが「あらゆることをやってますよね、ほんとに、全部やられてるっていう」と漏らすほどだ。だから誰かが「あの本も、きっと菊地さんの仕事だ」と気づいた本のほかにも、その本棚には〈装幀=菊地信義〉とクレジットされた本がまぎれているに違いない。気づけばこの本も、その本も、菊地さんの仕事なのか、と驚かされる。質だけではなく、量までも圧倒的だ。
ところが、菊地さんがその力強い装幀をどのように生み出しているのか、その現場を実際に見る人は、ほとんどいない。過去にぼくの単著も編集してくれた、NHK出版の編集者・白川貴浩さんは、同社から刊行されているシリーズの編集担当として、菊地さんと継続的に仕事をしている編集者のひとりだ。白川さん曰く、菊地さんとの打ち合わせの多くは、この映画にも頻繁に出てくる喫茶店「樹の花」で行われる。たまに事務所で行われるとしても、打ち合わせのスペースは、菊地さんの作業机が見え辛い位置にある。そのため、見るのはいつも出来上がったデザインだけで、作業の現場を見る機会はまず訪れない。この映画には、編集者さえめったに見ることができないプロセスが映っているのだ。
そしてその現場は、少なくとも現在の一般的なブックデザイナーのそれとは似ていない。印刷や製本のところは同じでも、その手前のデザインのプロセスが異なり、一般的にはその多くはパソコンで行われている。映画の中でも、「パソコンでスケッチしているような感覚」と言う水戸部さんの現場と、圧倒的な手作業が行われる菊地さんの現場は、対比的に描かれる。それぞれの、手と目。ミリ単位のこだわり。葛藤。逡巡。そして決定。菊地さんのプロセスは一見、まるで現代的でないようにも感じられる。けれど冒頭にも書いたように、菊地さんの装幀した新刊はいまも出続けていて、しかも書店でひときわ目立つ。手作業による試行錯誤の末にたどり着くバランス、そこに立脚する独特の統一感。装飾的な本とは対照的に、徹底的に削ぎ落されたデザインだからこそ、他の本とは違う目立ち方をする。もちろん、若いデザイナーの中にも手作業を重視する人は少なくないが、ここまで徹底したものを見せられると、その圧倒的にアナログなプロセスにこそ、〈装幀=菊地信義〉の本がもつモノとしての力強さの秘密が隠されているはずだと、この映画を見る誰もが直感するのではないだろうか。
たしかに、出版業界の統計的な売上は1995年をピークにこの20年以上のあいだ下がり続けていて、本屋はどんどん身の回りから姿を消している。インターネットがこれだけ普及したのだから、メディアとしての本や雑誌の役割の一部がとって変わられるのは当然のことだ。しかし一方で、強い思いを持った個人や小さな組織が経営する小さな本屋や出版社が、ここ数年少しずつ、新しく生まれている。開業の理由を聞けば、みなが口を揃えて「本が好きだから」という。紙の本の未来が危うい、崩壊する、といった言説が多くなっているからこそ、本を愛する人のなかに、立ち上がる人があらわれる。この映画はきっとそのような、モノとしての本を愛する人々と、その人の周りに集う人々に支持されるだろう。
手のひらに収まるスマートフォンの、変幻自在のディスプレイと違い、紙の本の中身は印刷されたときに固定化される。中身と外形とに分けられることなく、ひとつに合わさった物体としてその魅力を放ち、商品として売られる。純粋に中身を読みたいだけであれば、電子書籍で買ったり図書館で借りたりする選択肢もあるわけで、その本が欲しい、私有したいと思うその感覚は、現代では必ずしも中身を読むことに対してだけ向けられるわけではない。手にして、めくる。読みながら、線を引いたり書きこんだり、ページをちぎったりもできる。その大きさ、重さ、触り心地。毎日持ち歩いて読んだり、枕元や風呂場やトイレに置いて少しずつ読んだり、床に積んだり棚に差したりお気に入りの場所に飾っておいたり、誰かに見せたり貸したりプレゼントしたりもできる。カバーをかけて傷つかないよう大切にすることを楽しむ人も、持ち歩きや書き込みや日焼けなどによって変化することを楽しむ人もいる。自分には不要になったり保管しきれなくなったりしたら、捨てるか、売るか、人に譲るか、どこかに寄付するかと迷う。そうして次の人の手に渡ったり、渡らなかったりする。デジタルデータのように検索することはできないし、部屋の中でもカバンの中でも場所を取るし重たいけれど、それ以上の魅力を感じた人たちが、モノとしての紙の本を愛する。
そしてその、本にモノとしての形を与える仕事が、装幀だ。この映画で菊地さん自ら語っている本や装幀に関する考え方、その意味内容自体は、本人の著作によって、過去にもかなりの部分、言語化が試みられている。しかしその語りの空気感や、装幀のプロセスで見られる手や目の動きは、本人は嫌っているらしい映像というメディアだからこそ記録することができたもので、決して本に印刷して伝えることはできない。そこから次の世代のデザイナーや編集者、あらゆる本づくりに携わる者が感じ取り、学び取れることがそれぞれにあるだろう。映画という形で記録され後世に伝えられること、誰かが〈装幀=菊地信義〉の秘密を見破る可能性が残されたことを、まず歓びたい。
そして書店に通う一読者としても、そのプロセスに思いを馳せることになる。この映画を見たあとには、店頭でなぜか魅かれる本に出会ったとき、これまでは気にしなかったディテールに目が行くようになるはずだ。装幀を手がけたのは誰なのだろう、どんなこだわりが隠されているのだろう。どんな人が編集し、どんな工場で印刷され製本されたのだろう。そうしたことに少しでも想像をめぐらすことができるようになれば、本の楽しみ方がひとつ増える。そうして本の楽しさを語る人が増え、未来にあらたな種を蒔く。この映画は、その場所を照らす力を持っている。
初出:映画「つつんで、ひらいて」マスコミ配布用プレス、劇場用パンフレット(2019) 投稿日:2022年5月26日